谷田部藩について

 初代藩主細川興元は,肥後国熊本54万石領した細川忠興の実弟である。関ヶ原の戦いで徳川方についた興元は,その後,徳川秀忠に召出され,1610年(慶長15)に下野茂木庄1万石を給せられた。さらに大阪夏の陣の功により,常陸国谷田部6200石を加増されて1万6200石の大名となった。
以後,2代興昌,3代興隆,4代興栄,5代興虎,6代興晴,7代興徳,8代興建,9代興貫と慶長から明治維新まで,254年にわたりこの地の領有が続いた。
城(陣屋)は,最初,茂木に置いたが,2代興昌の時代から参勤交代に便利な谷田部に移し,この頃領内の統治にあたった。
現在の谷田部小学校敷地が,城(陣屋)跡で,当時をしのぶ大松(千歳松)が残っている。目通り3.6メートル,高さ27メートル,樹齢約400年。興昌が城下町の形成に力を注ぎ,現在の谷田部の形態は,この頃ほぼ整えられた。
江戸の通じる街道整備のために植えられたのが,不動松並木のおこりといわれている。今から約360年前のことである。(昭和33年7月 県天然記念物指定 谷田部不動松並木)

1794年 (寛政6) 城内に谷田部藩校弘道館(武館・文館)が設置された。
1822年 (文政5) 飯塚伊賀七が,木製和時計を完成し,町民に時を知らせる。(昭和33年3月 県史跡指定 五角堂と和時計)
1833年 (天保4) 天保の飢饉が起こり,藩内の荒廃が甚だしく藩財政も窮乏した。
1834年 (天保5) 藩の借財は,13万石両を越えたといわれている。
1835年 (天保6) 8代興建は,中村勧農衛を登用し,下野の二宮尊徳の指導により藩政改革を推し進めた。
1851年 (嘉永4) 勧農衛は,「さとし草」を領民に配布し,赤児の間引きをきびしく戒めた。
1840年 (天保11) 藩士数は,江戸屋敷58人,茂木陣屋47人,谷田部陣屋43人の計148人で,このほか奥女中,足軽,門番人その他となっている。
1864年 (元治元) 天狗党に参加した谷田部藩士ら処刑される。
1868年 (明治元) 関東諸藩に先駆けて新政府軍に参加した。
1869年 (明治2) 谷田部藩主興貫は,版籍奉還し谷田部藩知藩事になる。
1871年 (明治4) 廃藩置県によって谷田部は,新治県に属する。
1875年 (明治8) 茨城県の管轄となった。4月17日谷田部小学校が開校する。
1878年 (明治11) 陣屋跡大松東側に筑波郡役所が設置される。
1926年 (昭和元) 筑波郡役所が廃止となる。跡地は谷田部小学校敷地として拡張された。

昭和57年10月 記 谷田部町教育委員会

 

 

 

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